「PLEASE」(連載第二回・ep5)ファッションと雑誌の親和性

ウェブマガジン や電子書籍など、時代とともに登場してきた新しいメディアがある中で、「PLEASE」が選択したのは印刷物である雑誌。それは編集長の北原徹が培ってきたスキルを発揮できる場だからでもあり、何より彼が雑誌の可能性を信じているからに他ならない。


 それはパソコンや携帯などと違い、ハードウェアもソフトウェアも一つになった媒体だから、という物理的なメリットとは別に、「雑誌って3Dなんだよね」という持論があるからだ。

雑誌は三次元、だから人を動かす力がある

手を動かして書き込むのは頭の中のアウトプット。30年来愛用している芯ホルダーや万年筆を手に取り、企画タイトルやラフなどは手書きしてイメージを固める。「昔ながらのスタイルを貫けるところは貫く。それがデジタルの時代にアナログ世代の僕たちのパフォーマンスを発揮できる、とても泥臭い手段なんだと思いますよ」

 インターネットを介せば動画も音楽も、二次元プラスαの表現ができるし、最近はVRやARなど、三次元を超えた表現も行われている。しかし、ファッションを表現するには雑誌はベストなのだと、原辰徳読売巨人軍監督の「ジャイアンツ愛」に負けない北原氏の「雑誌愛」は偏愛の加速度を増す。

「最初に言いたいことがあるんで聞いて欲しいんですが、最近の出版社事情では紙を作りたいと思って入社しても、時代がネットだからと紙を知らずにネット編集部に配属される若者って少なくないんです。ぼくの気持ちの中では、とても寂しいと思うんです。もちろんビジネスだし、給料もらうために部署に配属されることに文句言っても仕方ないんですが、それでも若い人にはまず紙の編集部に配属されるといいと思うんです。「紙ものづくり」って、どこかに根性論が残っている気がしますし、もっと大きなマインドが日々用意されている気がします。成績優秀で勉強ができる人はネットビジネスでもうまくいくと思うのですが、雑誌づくりって、どっか出来損ないでもうまくできたり、ぼくみたいな不良(良ではないという意味で、不良経験のないチキンです。 北原談)でもできる気がしていて、それで今までやってこられました。結局、インターネットは二次元の世界で、三次元にはならない。だけど、紙であれば二次元から三次元に移せると思っていて。だってぼくの雑誌は読者に、本という少なくとも立体物の端くれを手に取るという動作を促しているわけです。『紙をめくらせた瞬間に読者に三次元を感じて欲しい、だからぼくの雑誌を買ってください』と思っています。それが雑誌を作る原動力になっているんです」

 IPA編集部も激しく共感してしまう雑誌愛。ではなぜ特にファッション誌を紙で作りたいのか、そのあり方について考えを語っていただいた。

「ファッションと紙の親和性はもう120%だと思いますよ。幸か不幸か印刷物が減ってきて、おかげで印刷物が高級なものに感じるでしょ?(笑) ネットではページごとのストーリーもなかなか見られないし、即物的ですよね。だから雑誌という三次元が表現できることってまだまだあると思うんです。夢って言ったら大げさですが、それでも雑誌は広げ方次第で読者に夢を見てもらえる装置になり得るはず。もちろん僕もネットショッピングはするけれど、服をパソコンやスマホの画面越しで見ても興味が湧かないから、ネットで服を購入しようとは思いません。その点、雑誌には行動を喚起するパワーがあると感じています。すべてを見せないからこそ、その服やそのブランドの世界観をお店に見に行こう! という行動への喚起になるからです」

 モノの紹介から購買までスムーズに導線がひかれているインターネットに比べると、確かに雑誌はその後の読者の行動に委ねられる面がある。しかし、読者に行動を起こさせるのが雑誌の役目だと氏は断言する。

「仮に自分が気に入った洋服が10万円であるとします。懐と相談した結果10万円は出せなくても、服が好きならとりあえず気に入ったのなら見に行くと思うんです。そこで考えてみてください。例えば「8万円までは出せるけど……」という人がいたとしたら、見方によっては、あと2万円のところまで近づいたってことだし、お店では他のものが隣に並んでいるわけです。そのときに何も10万円の洋服を買わないで、5万円でもっと気に入ったものを手に取り、試着することもできるかもしれないんですよ。デジタルの世界にない、リアルな世界での買い物って、そういう必然的な偶然の積み重ねだと思うんです。そして、それは足を運んだことによってその状況が生まれたんです。8万円の予算までしかないけど、10万円の現物を見ている。この差は大きくて、だからお店に行って本物を見るっていうのは重要だと思う。さらにいうなら、お店ではそのブランド哲学や理想も見ることができます。それは『憧れ』と言い換えても過言ではない。インターネットショッピングはたくさんものだけが並んでいる利点はあるけれど、ただポチってするだけ。そこには10か0しかありません」

 モードという日々移り変わる、常に先端いく世界において、「雑誌は洋服を『見せる』のではなく『魅せる』ものであるべきだ」。PLEASEの誌面からは、そんな強い意志が感じられる。

PLEASE誕生前夜のキーパーソンたち

 先の記事でも触れた通り、PLEASEを立ち上げる前はPOPEYEの副編集長を務めていた北原氏。退社後は出版社から編集長職のオファーもあったそうだが、フリーの編集者、フォトグラファーとして活動を開始し、自分が楽しめる仕事に関わってきた。だから、当初はPLEASEの構想はおろか、自分で出版社を始めるなんてことは微塵も考えてなかったという。

「PLEASEの創刊に到ったのは、きっかけを作ってくれた人が何人かいたからです。その一人が宮下くん(※宮下貴裕さん。TAKAHIROMIYASHITATheSoloist. デザイナー)。マガジンハウスを辞めてから半年ほど経ったころ、たまたま彼から『前に連れて行ってもらった、ゴールデン街の店に行きたいんですけど』って電話があったんです。それで店の名前と場所を教えたのですが、そのあと『今日はお店がやっていなかった』とまた連絡があったですね、その電話を切った後になぜか、俺は雑誌を作んなきゃダメだって思ったんです。仕事の話も雑誌の話も一切してないのに、本当になんでかわからないけれど、宮下くんの声に救われた気がしています」

 なんとも不思議な話だが、北原氏はハッキリとそう記憶している。きっと、そんなこともこの世の中にはあるのだろう。

「ぼくが好きな作家、村上春樹さんが小説を書き始めたきっかけは、神宮球場でビールを飲みながら野球を見ていた時に、ふと小説を書こうと思ったからだって話を読んだことがあります。そういうことってあるんでしょうね」

 

 雑誌立ち上げの裏にはそんな啓示じみた出来事があったそうだが、さらに他にも、その後の人生が変わる気付きを与えてくれた人物がいるのだという。

「雑誌の立ち上げを考え始めてからは、出資も必要だろうとか、編集部員をどう集めようとか、ずーっとモヤモヤする日々が続きました。モヤモヤというか、ファッション誌ってお金がかかりすぎるんですよ。人が関わるといろいろお金かかるじゃないですか? なかなかえい!やっ!って解決できる問題ではない。そしてある日、本当に偶然、人との待ち合わせに時間が空いて(※北原補筆。こういう時間をぼくは「人生のエクストラタイム」と呼んでいます)よく行く『d.m.x.』という新宿のロックバーに行ったんです。その日は珍しくぼくしかお客がいなかったんですね。音楽を聴きながらお酒を飲んでたら、マスターが『トッド・ラングレンって知ってる?』って聞いてきたんですよ。普段、そんな会話の振りはあまりしない人なのに、そのときはなぜか、そんな話題を振ってくれたんですね。

 実は日本でも有名なミュージシャンなんですが、その時は知らなくて。なぜ突然トッド・ラングレン? そんな人は知らないから『ごめん知らない』って答えました。そしたら『トッド・ラングレンは北原くんの好きな山下達郎も影響受けているんじゃないかなぁって。でさ、彼はドラムもベースもギターもキーボードもボーカルも全部自分でやってるのよ』って言うわけ。なぜこの人は、今ここでその話をするんだ……? と思いながら思考を巡らせていると、そこで気がついたんです。自分は写真も撮る、文章も書く、編集もする、スタイリングだってやったこともある、デザイン的なことも頭にある……。マスターの一言で全ての歯車がガチャガチャガチャガチャってハマって、その時に自分で雑誌作れるって確信しました。宮下くんと『d.m.x』のマスターには本当に感謝ですね」

 そんなドラマティックな展開の積み重ねの末、いよいよ一人編集部を立ち上げることにした北原氏。それでも最初の走りだしから半年ほどは、大手出版社に企画を持ち込んで出版するか、それとも流通も独自で確保する小出版社として雑誌を出していくかの二択に悩み、決断は容易ではなかったという。
 大手出版社を経ているだけに、そもそも書店取次の販路を持たないところで雑誌なんて出せるのだろうか、という思いもきっと無くはなかっただろう。

「それまでインディペンデントマガジンという世界をあまり知らなく、自分で勝手にやっちゃっていいのかなという不安はありました。でも既にファッション誌では一緒の編集部にいた故・三浦恵さんのPOOLや、大橋歩さんが作っていらしたライフスタイル誌のArneがあったから、僕だって1人で作ったっていいはずだという気持ちになったんです」

 Arneは平凡パンチの創刊のイラストレーターでもあった、大橋歩さんが一人で作り上げた年4回発行のインディペンデントマガジン。2009年で休刊となったものの、リトルプレス界隈では女性を中心に今だに愛されており、伝説として語られる雑誌である。

「僕はArneを全刊持っていて読ませて頂きましたが、僕が大橋歩さんから吸収したところは彼女の姿勢です。僕が思うArneの素晴らしさは、雑誌の内容という『形態』じゃなくて『思想』にあると思っています。聞いた話なのですが、大橋さんがArneを作ろうと思ったとき、ある有名なカメラマンに撮影をお願いしたそうなんです。そしたら、その方が『大橋さんの撮った写真は大橋さんにしか撮れない味があるんだから、それで作っちゃえばいいじゃん』って言ったとか。それで実際に自分で最後まで写真も撮られていたんです。大橋さんにしか出せない写真が載せられていた。それが僕の中で一つの指針になったんですよね。自分の想いを伝えたいなら、それは自分で作るしかない。そんなメッセージを僕はArneから受け取りました」

 ちなみにある時、大橋さんが「私が作りたかったのはこういう写真だ」とPLEASEを雑誌で紹介していたことがあったそうで、北原氏はそれを読んで「この道で間違っていなかった」と嬉しく思ったという。

編集者は一人一誌雑誌を作るくらいでないと

「PLEASEを作るなんて大胆なことを考えていたわけではないけれど、僕はマガジンハウス時代から、編集者ならば一人一誌は雑誌を作れるスキルと思いを持たなきゃダメだよねって、今後は一人一誌を作る時代が来ると思うってよく役員に進言していたんです。出版社時代から、自分が好き勝手できる雑誌を作らせてよとは思っていて。もちろん今のように一人で何でもやることまでは考えていませんでしたけどね(笑)。
 PLEASEという雑誌ができているのは、僕が多重人格的だからだと思います。普通の雑誌は編集者やスタッフを変えることで誌面のバリエーションを生むものだけど、僕はその代わりに、カメラに対しても多重人格だし、僕自身のベクトルを変えることで、企画ごとに違う引き出しで作れると思っていて。それに、例えば服はブランドごとにカラーがあるから、基本はそこに向かっていけばいい。そうじゃないところは編集者のセンスの見せ所だと思う。誰も褒めてくれないし、誰も言ってくれないけれど『雑』を作ることに関しては天才だと思っていますよ(笑)」

 さまざまな運命に導かれるように、この世にPLEASEを出すこととなった北原氏。次回の配信では、どうしてファッション、しかもモード誌を作る道を選んだのか? 北原氏は今のファッションシーンをどう見ているのか? などについてうかがう。

ep6 「ファッション業界に物申す!?」に続く。

Infomation

「PLEASE」
Web:https://www.please-tokyo.com/
Instagram:@please_tokyo

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